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わかった気、想う、ひいばあちゃんのはなし - サヨナランドをつづる ② -

 前回自分の趣味の話を無理やりバンドに絡ませた私である。こんにちは。

 

 

エッセイとかでかい口叩く割には更新が牛歩だね。

 

明後日が2マンライブなのに新曲にまつわる話してねえ…

 

誰にも怒られない、でもこのままいくと、頭の中に彦摩呂さんが出てきて、ちょうどよく焼けたステーキを頬張りながら「ホンマ何がしたかってん、自分」と吐き捨てられそうだ。

なんとなく核心ついた言葉を吐き捨てられて傷心させられそうな人だ。

 

そうそう、なんか関西圏の人って相手のこと「じぶん」って呼ぶ人いるよね。そんなイメージだよね。

 

 

ということで急ピッチ進行します。

 

 

 

楽曲制作時、私はまだ身内始め親しい人が殆ど皆んな元気に生きていた。というのは大げさで、普通にどっかしらで生活していた。

 

 

ただ一人、12,3年程前のひいばあちゃんの死を除いて。

 

 

「お前のひいばあちゃんは、島では踊り子だったんだよ。歌も上手くて、祭りや盆の時に歌い踊る姿は凄かったんだ。お前はきっとひいばあちゃんの血があるんだろうな。」

 

 

いつだったか、ひいばあちゃんが亡くなってしばらくして、父にこんな話をしてもらった。

 

 

ひいばあちゃんは私が物心ついた時にはボケてしまっていて、私がひいばあちゃんに会うと、必ずと言っていいほど父と勘違いされた。

 

そのためかコミュニケーションの取り方が幼いなりにも考えられず、結果彼女とは上手く話せたことがなかった。

 

正直ちょっと怖いとも思っていた。何もできず、歩み寄ろうにもできない感じにモヤモヤしていた。

 

 

去年の夏から秋頃、いつものように特撮を観た後(何を観たかは覚えていません)に、自分の大切な人がまだ生きてること、そして父から聞いたひいばあちゃんの話を思い出した。

 

 

芸術で描かれる死を知っていること、現実の死は知ってるようで、実はわかった気でいるように思うこと、そして、ひいばあちゃんの死を上手く受け止めきれなかったこと。

 

色んなことを考えた。

 

 

特撮を見てそんなことを考える情緒を持っていることには目を伏せて下さい。

 

 

そうして考える内に、死を想像し表現してみるのはどうかという所に行き着いた。

 

 

死ぬことは生きてるだけでわかる訳がないし、他者の死も考えれば自分じゃないので、幾ら悲しかろうと、寂しかろうとわかった気にしかならないのだ。

 

 

そこできっと大事になるのは、死を想う事じゃないか。

 

 

大事な人の死を想像する事、いなくなった後で死を想う事。

 

 

わかった気でいられる死は、そうして自分の中に残る。

 

そこには愛がある。

 

ひいばあちゃんの事をわかりきれなかった俺にも、自分の中にあるひいばあちゃんの生きた姿が愛の象徴だとしたら

 

 

このわかりきれない死について思うことを曲にしようと書き始めた。

 

 

ひと通り書き終えてタイトルはどうしようかとなった時、敢えて馬鹿馬鹿しい名前をつけてみたくなった。あんまりそこには理由は無く、なんとなくで。

 

 

『サヨナランド』

 

駄洒落じみた名前。

 

自分が生き抜くまで残る、生き抜いた人との愛と、繋がり。

 

彼らが違う場所で、今は行けない場所で、かっこよく面白おかしく過ごしてたらと想像してみる。

 

ひいばあちゃんが俺の知らない場所で、楽しく歌って踊ってたらと想像してみる。

 

 

いつか、どんな人か知るために改めて話させてもらおう。

 

そんな踊ってねえし、歌もそこそこだし、てか勝手にあたしのこと歌ってんじゃねえバカひ孫が!

 

 

 

なんて怒られんのかなとか思って笑ってしまった。

 

 

生き抜いたあなたは今、私の光です。